海外からの観光客からも大人気。「平和記念館」のある鹿児島という街。

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海外からの観光客からも大人気。「平和記念館」のある鹿児島という街。

知覧特攻平和会館をご存知でしょうか?

知覧特攻平和会館
当サイトは、鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館の公式サイトです。大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。

第二次世界大戦は、1941年(昭和16年)12月8日、ハワイの オアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地への奇襲攻撃によって開始されました。 日本の陸・海軍主力は、真珠湾攻撃の後、東南アジアに進攻しました。先に述べたように、当時東南アジアのほとんどの国々が欧米列強の植民地となっており、現地守備隊しか残っていなかったこともあって、奇襲攻撃が成功し瞬く間にオーストラリア北側の線まで進出しました。

ところが、1942年(昭和17年)8月になるとアメリカを中心とする連合軍が態勢を回復し反撃に転じました。その後の日本軍は連合軍の強大な戦力に押され防戦一方になり、開戦から3年後の1945年(昭和20年)初頭になると、沖縄はもちろん日本本土も空襲を受けるようになりました。特に1945年(昭和20年)5月7日、同盟国であったドイツが降伏すると、連合軍の攻勢は日本だけに集中するようになり、日本全土が苦戦を強いられるようになったのです。

当時、日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。

この段階では、圧倒的な物的戦闘力に勝るアメリカの進攻を阻止する日本軍としては、兵士一人一人の精神力を武器とした特攻戦法しか他に手段がないとの結論に達したのでした。

つまり、日本の軍人が命を懸けた特攻を重ねることで、アメリカ軍にも大きな被害を与え、そうなると嫌戦気運(戦争を嫌がる気持ち)が広がっていき、お互いに損害を出したくないから、そのうち停戦になるのではないか・・・という期待を、政府はしていたのではないでしょうか。

沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず” 死ぬ・亡くなる” という『必死』条件の作戦でした。

特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。

本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。

特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は” 振武隊(しんぶたい)”、台湾から出撃した部隊は” 誠飛行隊(まことひこうたい)” と呼称しています。

3月26日開始された慶良間(けらま)列島海域への特攻作戦は、沖縄本島・石垣島・宮古島から出撃しましたが、4月1日沖縄本島に上陸後は、九州及び台湾から出撃するようになりました。

(知覧特攻平和会館 HPより抜粋)

昨年初めて鹿児島に行きました。

気候も良く観光できる場所がたくさんあり、一度行くとまた行きたくなるオススメの観光スポットです。

天文館むじゃき 本店 白熊アイス

白熊アイスの本店の味は別格です!氷にミルクのフレーバーが付いていてなめらか。フルーツもたくさん乗っているので最後まで美味しかったです。

 

くろいわラーメン

有名すぎる くろいわラーメン。豚骨ですがクセがなく2杯くらい食べられそう。初めて食べたのに懐かしい味がしました。

産直鉄板 ビーファーズ

ランチで頂いたハンバーグも絶品。サラダで出してくれた生野菜から、全部美味しかったです。

そんな感じで浮かれていたところから向かった 記念平和会館。

そこには、私の空気を変える様々な展示がありました。もう10ヶ月以上前ですが、ここは出来れば年に一度は行きたいなと思います。

それは、今生きている自分にしかできないことは何だろうという風に考えるきっかけを与えてくれるから。背すじが伸びます。

平和記念館

74年前。愛する人も、将来もある若い男性達が、「日本の為に戦う」特攻隊となり突撃しなければいけない時代が確かにありました。

それは、たとえ死ぬことも厭わないという、暗黙の死が待っている時代でした。

愛する人がいるのに死にたいわけがない。その壮絶な葛藤を皆が胸に秘めていたのかなと心を打たれました。

家族や婚約者へと書いた手紙もたくさん大切に展示されていました。

すすり泣きながら展示の手紙を読むおばさまを後にして進むと、、、私もまた涙が出てきました。

婚約者へと書いた手紙。

「ぼくは行きます。

できるものなら〇〇さんと会いたい。

あなたに会えて幸せだった。幸せを願っています。」

誇らしい気持ちや絶対勝つ、という想念も相当なものだったと思います。日本人の精神力はアメリカも警戒するほど強かった。

喜びや誇らしさを綴った、自分の死への恐怖を断ち切るような奮い立たせるような手紙も数多くありました。

家族を心配させないようにという想いもあったのかもしれません。

18歳の兵士が継母に書いた手紙。

「お母さん、お母さん、お母さん」と書かれていました。

この兵士は、本当の母と別れてしまい寂しさや心の揺れがあって、お世話になっていた継母をお母さんと呼べないまま特攻隊に行ってしまったのです。

そしてもう自分は死ぬんだと思った時心の乱れなど見せず継母への親愛と感謝、お母さんと呼べなかったことへの謝罪を最後の手紙にしたんです。

自分だったらそんな立派なことができるだろうかと感動しました。

今 人は多様化し、社会は情報化社会です。私は学んでいる中で、これからは競合から共存の社会になると良いなと強く思います。

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